日本100名城70_岡山城_14 [日本100名城スタンプ]
スタンプ設置場所:岡山城天守閣入口
押印日:2013.11.28
12月に入りましたね。
今年も残り1ヶ月をきってしまいましたが、なんかあっという間に年が明けそうな気がします。
ここのところ、風景印が続いていたので、気分転換に今日は久しぶりに日本100名城スタンプです。
お城巡りも最近、時間が取れなくていってなかったのですが、先週、岡山方面に行ってきましたので今日は岡山城です。
岡山市は初めだったので、岡山城だけでなく後楽園や郵便局巡りもしました。
いろいろ風景印やその他のスタンプもGETしました。(のちのち紹介したいと思いますが、こちらはだいぶ先になるかも)
岡山城
「戦国時代に、備前西部から美作、備中に勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、両池田氏により整備、拡張が行われた。
岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設された。
当時、旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山とも)、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山とも)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されたとされる。その中の石山にあった石山城(いしやまじょう)に宇喜多直家が入城・改築し、後に子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造された。これが岡山城である。(中略)その外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう)」とも呼ばれ、隣県の「白鷺城(はくろじょう)」とも呼ばれる姫路城と対比されることもある。
明治時代に御殿・櫓・門の大半が取り壊された。堀は内堀の一部を除いてほとんど埋められたが、街路は江戸時代の位置をほぼ踏襲している個所が多い。さらに第二次大戦中、空襲のため天守・石山門を焼失した。現在までに2つの櫓、本丸付近の石垣、内堀が残り、戦後に天守・不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部が再建された。現存する月見櫓・西之丸西手櫓は国の重要文化財に指定され、「岡山城跡」として史跡にも指定されている。」(Wikipediaより)
旭川をはさんで右に岡山城天守、左は後楽園、中央にあるのはそれを結ぶ月見橋。
廊下門(1966年に再建されたもの)
月見櫓
岡山城第5代城主、池田忠雄によって、元和、寛永年間に建てられたもので、表書院の北西を防衛するためのもの。普段は非公開。二棟しか残っていない当時の建物の一つで重要文化財になっています。年に1回程度特別公開をしているようです。
宇喜多氏築城時の石垣。平成5年の発掘調査で発見されたもの。
表書院側から見た天守。
不明(あかず)の門。
普段はほとんど閉ざされていたことから不明の門と呼ばれた城門で、明治の廃城後取り壊されたが、昭和41年(1966年)に鉄筋コンクリートで再建されました。
本段から見た天守閣
戦前、国宝(現在の重文に相当)に指定
天守閣は昭和20年の空襲で焼失。
昭和41年(1966年)に鉄筋コンクリートで再建。
内部は6階建ての史料館になっていました。
外観に比べると中は少しこじんまりした印象の内部空間になっていました。
岡山城天守から後楽園を見る。
後楽園側から岡山城天守閣を見る。
久しぶりのお城巡りでした。
日本100名城スタンプを始めて4年ぐらい経ちますが、まだ14城目。
100城達成にはあとどれだけ時間がかかることやら。
あんまりゆっくりしてるとまわりきれないかも。。。
これから少しずつ寒さも厳しくなると思いますので、風邪など引かないようにお気をつけ下さい。
皆様のところへはこれから伺いたいと思いますのでご了承下さい。
本日もご訪問ありがとうございました。
押印日:2013.11.28
12月に入りましたね。
今年も残り1ヶ月をきってしまいましたが、なんかあっという間に年が明けそうな気がします。
ここのところ、風景印が続いていたので、気分転換に今日は久しぶりに日本100名城スタンプです。
お城巡りも最近、時間が取れなくていってなかったのですが、先週、岡山方面に行ってきましたので今日は岡山城です。
岡山市は初めだったので、岡山城だけでなく後楽園や郵便局巡りもしました。
いろいろ風景印やその他のスタンプもGETしました。(のちのち紹介したいと思いますが、こちらはだいぶ先になるかも)
岡山城
「戦国時代に、備前西部から美作、備中に勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、両池田氏により整備、拡張が行われた。
岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設された。
当時、旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山とも)、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山とも)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されたとされる。その中の石山にあった石山城(いしやまじょう)に宇喜多直家が入城・改築し、後に子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造された。これが岡山城である。(中略)その外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう)」とも呼ばれ、隣県の「白鷺城(はくろじょう)」とも呼ばれる姫路城と対比されることもある。
明治時代に御殿・櫓・門の大半が取り壊された。堀は内堀の一部を除いてほとんど埋められたが、街路は江戸時代の位置をほぼ踏襲している個所が多い。さらに第二次大戦中、空襲のため天守・石山門を焼失した。現在までに2つの櫓、本丸付近の石垣、内堀が残り、戦後に天守・不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部が再建された。現存する月見櫓・西之丸西手櫓は国の重要文化財に指定され、「岡山城跡」として史跡にも指定されている。」(Wikipediaより)
旭川をはさんで右に岡山城天守、左は後楽園、中央にあるのはそれを結ぶ月見橋。
廊下門(1966年に再建されたもの)
月見櫓
岡山城第5代城主、池田忠雄によって、元和、寛永年間に建てられたもので、表書院の北西を防衛するためのもの。普段は非公開。二棟しか残っていない当時の建物の一つで重要文化財になっています。年に1回程度特別公開をしているようです。
宇喜多氏築城時の石垣。平成5年の発掘調査で発見されたもの。
表書院側から見た天守。
不明(あかず)の門。
普段はほとんど閉ざされていたことから不明の門と呼ばれた城門で、明治の廃城後取り壊されたが、昭和41年(1966年)に鉄筋コンクリートで再建されました。
本段から見た天守閣
戦前、国宝(現在の重文に相当)に指定
天守閣は昭和20年の空襲で焼失。
昭和41年(1966年)に鉄筋コンクリートで再建。
内部は6階建ての史料館になっていました。
外観に比べると中は少しこじんまりした印象の内部空間になっていました。
岡山城天守から後楽園を見る。
後楽園側から岡山城天守閣を見る。
久しぶりのお城巡りでした。
日本100名城スタンプを始めて4年ぐらい経ちますが、まだ14城目。
100城達成にはあとどれだけ時間がかかることやら。
あんまりゆっくりしてるとまわりきれないかも。。。
これから少しずつ寒さも厳しくなると思いますので、風邪など引かないようにお気をつけ下さい。
皆様のところへはこれから伺いたいと思いますのでご了承下さい。
本日もご訪問ありがとうございました。
日本100名城42_掛川城_13 [日本100名城スタンプ]
スタンプ設置場所:掛川城御殿入口
押印日:2012.1.31
梅雨入りしたから仕方ないけれど、今日もどんよりした空模様で、雨が降ったりやんだりです。
今年の梅雨はこうした日が続くようなことはなさそうだと天達気象予報士がテレビで言ってた。
雨が降る時はしっかり降るが、晴れる日もどうやら多そうだ。
これも今のところの予報なので、はずれる場合もある。
ただ、昨日まで曇り空の天気予報も、晴れマークが増えているので、少しホッとしている。
今日は久しぶりの日本100名城のスタンプです。
実はこの掛川城以来、100名城には行ってないので、そろそろお城巡りもしてみたいですね。
掛川市のホームページによれば「室町時代、駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが掛川城のはじまりです。
戦国時代には、山内一豊が城主として10年間在城しました。働き盛りの一豊は大規模な城郭修築を行い、天守閣、大手門を建設するとともに、城下町の整備や大井川の治水工事などに力を注ぎました。掛川は、一豊の人生にとって大きな意味をもつ土地であり、高知城は掛川城を模して作られたとも伝えられています。
現在の掛川城は、平成6年(1994年)4月に「東海の名城」と呼ばれた美しさそのままに、日本初の「本格木造天守閣」として復元されたものです。」とありました。
自分が知っているのはまだ天守がない時代だったので、天守がそれも木造で復元されたことはよかったです。
掛川城天守
三日月堀から天守を見る
青銅製の鯱
袋井市油山寺の山門の鯱を参考に、高知城天守閣の鯱にならって青銅でつくられたそうです。
霧吹き井戸
説明板によると「永禄12年(1569)徳川家康は、今川氏真の立てこもる掛川城を攻め、この時に、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説がある」というものです。
掛川城内部
やっぱり、木造のほうがいいですね。
重要文化財に指定されている掛川城御殿
太鼓櫓
富士山が思ったより見えました。
梅雨入りしたこともあってか、アジサイの開花の声が聞こえ始めましたね。
どこにいこうかな。。。。。
今年の梅雨は晴れの日も多いことを願って、写真を撮りにいきたいです。
梅雨の時期、ジメジメして体調も不安定になりがちですが、十分気を付けてお過ごし下さい。
本日もご訪問ありがとうございました。
押印日:2012.1.31
梅雨入りしたから仕方ないけれど、今日もどんよりした空模様で、雨が降ったりやんだりです。
今年の梅雨はこうした日が続くようなことはなさそうだと天達気象予報士がテレビで言ってた。
雨が降る時はしっかり降るが、晴れる日もどうやら多そうだ。
これも今のところの予報なので、はずれる場合もある。
ただ、昨日まで曇り空の天気予報も、晴れマークが増えているので、少しホッとしている。
今日は久しぶりの日本100名城のスタンプです。
実はこの掛川城以来、100名城には行ってないので、そろそろお城巡りもしてみたいですね。
掛川市のホームページによれば「室町時代、駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが掛川城のはじまりです。
戦国時代には、山内一豊が城主として10年間在城しました。働き盛りの一豊は大規模な城郭修築を行い、天守閣、大手門を建設するとともに、城下町の整備や大井川の治水工事などに力を注ぎました。掛川は、一豊の人生にとって大きな意味をもつ土地であり、高知城は掛川城を模して作られたとも伝えられています。
現在の掛川城は、平成6年(1994年)4月に「東海の名城」と呼ばれた美しさそのままに、日本初の「本格木造天守閣」として復元されたものです。」とありました。
自分が知っているのはまだ天守がない時代だったので、天守がそれも木造で復元されたことはよかったです。
掛川城天守
三日月堀から天守を見る
青銅製の鯱
袋井市油山寺の山門の鯱を参考に、高知城天守閣の鯱にならって青銅でつくられたそうです。
霧吹き井戸
説明板によると「永禄12年(1569)徳川家康は、今川氏真の立てこもる掛川城を攻め、この時に、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説がある」というものです。
掛川城内部
やっぱり、木造のほうがいいですね。
重要文化財に指定されている掛川城御殿
太鼓櫓
富士山が思ったより見えました。
梅雨入りしたこともあってか、アジサイの開花の声が聞こえ始めましたね。
どこにいこうかな。。。。。
今年の梅雨は晴れの日も多いことを願って、写真を撮りにいきたいです。
梅雨の時期、ジメジメして体調も不安定になりがちですが、十分気を付けてお過ごし下さい。
本日もご訪問ありがとうございました。
日本100名城23_小田原城_12 [日本100名城スタンプ]
スタンプ設置場所:天守閣1階
押印日:2011.7.30
やってしもうたぁ!今のところ日本100名城スタンプの押印で最大に失敗した例です。
力を入れすぎたせいだと思いますが、さすがにここまで失敗してしまうとがっくりです。
どこの城かもわからない有様。
小田原城はいつも東海道新幹線に乗って小田原を通過する際、見える天守閣が印象的で、いつか来てみたいと思ったお城の一つ。
意外と遠いので、なかなか行くチャンスが今までありませんでした。
小田原城は明治3年に廃城となってほとんどの建物が解体され、残っていた石垣も関東大震災で崩れてしまいました。
その後、天守閣をはじめ現在もいろいろ整備が進んでいるようです。
これは銅門(あかがねもん)で、江戸時代の工法、技術を採用して平成9年(1997年)に復元された門です。
銅門をくぐり、小田原城歴史見聞館を通り過ぎて行くとこの常盤木門があります。
こちらも市制30周年事業として再建したもので昭和46年(1971年)3月に完成したものです。
そして常盤木門をくぐっていって現れるのが、複合式層塔型3重4階の天守閣です。
こちらは昭和35年(1960年)5月に市制20周年記念事業で復興した鉄筋コンクリート造で外観復元されました。復元されたとはいえすでに50年経っている天守閣で、江戸時代同様に小田原のシンボル的存在であることはいうまでもありません。
内部は歴史資料の展示室となっています。
平和な時代にお城というのは不釣り合いかもしれないけれど、それまでの歴史を踏まえて出来上がってきたその風景はまた残して行きたい景色の一つでもありますね。
押印日:2011.7.30
やってしもうたぁ!今のところ日本100名城スタンプの押印で最大に失敗した例です。
力を入れすぎたせいだと思いますが、さすがにここまで失敗してしまうとがっくりです。
どこの城かもわからない有様。
小田原城はいつも東海道新幹線に乗って小田原を通過する際、見える天守閣が印象的で、いつか来てみたいと思ったお城の一つ。
意外と遠いので、なかなか行くチャンスが今までありませんでした。
小田原城は明治3年に廃城となってほとんどの建物が解体され、残っていた石垣も関東大震災で崩れてしまいました。
その後、天守閣をはじめ現在もいろいろ整備が進んでいるようです。
これは銅門(あかがねもん)で、江戸時代の工法、技術を採用して平成9年(1997年)に復元された門です。
銅門をくぐり、小田原城歴史見聞館を通り過ぎて行くとこの常盤木門があります。
こちらも市制30周年事業として再建したもので昭和46年(1971年)3月に完成したものです。
そして常盤木門をくぐっていって現れるのが、複合式層塔型3重4階の天守閣です。
こちらは昭和35年(1960年)5月に市制20周年記念事業で復興した鉄筋コンクリート造で外観復元されました。復元されたとはいえすでに50年経っている天守閣で、江戸時代同様に小田原のシンボル的存在であることはいうまでもありません。
内部は歴史資料の展示室となっています。
平和な時代にお城というのは不釣り合いかもしれないけれど、それまでの歴史を踏まえて出来上がってきたその風景はまた残して行きたい景色の一つでもありますね。
日本100名城21_江戸城_11 [日本100名城スタンプ]
日本100名城44_名古屋城_10 [日本100名城スタンプ]
スタンプ設置場所:東門改札所
押印日:2011.5.19
「尾張名古屋は城で持つ」
犬山城から本日最後の名古屋城へ。
過去にニアミスは何度かあれども、実は登閣するのは初めて。
名古屋城というと金の鯱がまず頭に浮かぶ。
近づいてみると大天守は思っていた以上に大きかった。
現在の大天守は鉄骨鉄筋コンクリート造で5層7階で外観復元された建物で、中は史料館になっています。
幾度となく天災をのがれ、戦前まで国宝に指定されていましたが、第2次大戦の空襲で多くの国宝を焼失しました。
もしということはないけれど、歴史の偶然性、必然性、両方を兼ね備えつつ、文化的価値を持ちながら、長い歴史の中で文化財が残って行くのは大変なことだ。
現代の私たちが実際に目にしているものはほんのわずかでしかないけれど、当時の庶民からすれば、遠くからしか見れなかったものを近づいて見れる時代になったのは平和で、平等な社会になったという証なのかもしれませんね。
石垣の刻紋
これは築城を命じられた諸大名が、自分の運んだ石を他の大名の石と区別するために刻んだ目印だそうです。他のお城でも時々見かけます。
つづく。。。
押印日:2011.5.19
「尾張名古屋は城で持つ」
犬山城から本日最後の名古屋城へ。
過去にニアミスは何度かあれども、実は登閣するのは初めて。
名古屋城というと金の鯱がまず頭に浮かぶ。
近づいてみると大天守は思っていた以上に大きかった。
現在の大天守は鉄骨鉄筋コンクリート造で5層7階で外観復元された建物で、中は史料館になっています。
幾度となく天災をのがれ、戦前まで国宝に指定されていましたが、第2次大戦の空襲で多くの国宝を焼失しました。
もしということはないけれど、歴史の偶然性、必然性、両方を兼ね備えつつ、文化的価値を持ちながら、長い歴史の中で文化財が残って行くのは大変なことだ。
現代の私たちが実際に目にしているものはほんのわずかでしかないけれど、当時の庶民からすれば、遠くからしか見れなかったものを近づいて見れる時代になったのは平和で、平等な社会になったという証なのかもしれませんね。
石垣の刻紋
これは築城を命じられた諸大名が、自分の運んだ石を他の大名の石と区別するために刻んだ目印だそうです。他のお城でも時々見かけます。
つづく。。。
日本100名城43_犬山城_09 [日本100名城スタンプ]
スタンプ設置場所:城郭内
押印日:2011.5.19
岐阜城をあとにして向かったのは四大国宝城の一つ犬山城(通称:白帝城)です。
今までなぜ来なかったのか不思議なくらいです。
名鉄岐阜駅から名鉄の乗って犬山遊園で下車、木曽川沿いを歩いて犬山城に向かいました。
今回のスタンプの押印は成功です。
毎回こうであればいいのですが。
さて犬山城は典型的な「後堅固の城」といわれます。
たしかに木曽川を背に断崖の上に建つ犬山城をみればそういわれるのもうなずけます。
近づくにつれ、なんかテンションも上がり気味。
たぶん現存する天守であり、なおかつ国宝ということも影響か。
犬山城は望楼型、三層四階地下二階の複合式天守。高さ19mで現存する日本最古の様式だそうです。
ちなみに現存する最古の天守は福井県の丸岡城といわれています。
さて、はやる気持ちを抑え、犬山城へは手前の有楽苑にあるもう一つの国宝の茶室如庵を見てから向かうことにしました。
つづく。。。。
押印日:2011.5.19
岐阜城をあとにして向かったのは四大国宝城の一つ犬山城(通称:白帝城)です。
今までなぜ来なかったのか不思議なくらいです。
名鉄岐阜駅から名鉄の乗って犬山遊園で下車、木曽川沿いを歩いて犬山城に向かいました。
今回のスタンプの押印は成功です。
毎回こうであればいいのですが。
さて犬山城は典型的な「後堅固の城」といわれます。
たしかに木曽川を背に断崖の上に建つ犬山城をみればそういわれるのもうなずけます。
近づくにつれ、なんかテンションも上がり気味。
たぶん現存する天守であり、なおかつ国宝ということも影響か。
犬山城は望楼型、三層四階地下二階の複合式天守。高さ19mで現存する日本最古の様式だそうです。
ちなみに現存する最古の天守は福井県の丸岡城といわれています。
さて、はやる気持ちを抑え、犬山城へは手前の有楽苑にあるもう一つの国宝の茶室如庵を見てから向かうことにしました。
つづく。。。。
日本100名城39_岐阜城_08 [日本100名城スタンプ]
スタンプ設置場所:岐阜城資料館入口
押印日:2011.5.19
今回は岐阜城。
5月に名古屋へ行く機会があったので岐阜へ足を延ばして岐阜城に行ってきました。
といっても快速電車で20分程度の距離なので、遠い距離ではありませんね。
岐阜駅に到着し、バスに乗って岐阜城へ向かいました。
下から見る岐阜城はまさに天空の城という感じで、標高329mの高さにあります。
かつては稲葉山城と称した城は、斎藤道三の居城でもあったところで、NHKの大河にもなった司馬遼太郎の「国盗り物語」でも有名です。(自分はこの時点ではまだ読んでいなかったのですが、帰った後、すぐに読みました。斎藤道三、織田信長、明智光秀の三人がドラマチックに描かれていて久々に面白い本に出会いました。しかしこんなに司馬遼太郎って読み易かったかな?)
岐阜城に行くためにはロープウェイに乗らなくてはならない。
(軽い登山的な)ハイキングコースもあるらしく、多くの人が登ってきていたけど、当然自分はロープウェイを利用しました。
続く....。
押印日:2011.5.19
今回は岐阜城。
5月に名古屋へ行く機会があったので岐阜へ足を延ばして岐阜城に行ってきました。
といっても快速電車で20分程度の距離なので、遠い距離ではありませんね。
岐阜駅に到着し、バスに乗って岐阜城へ向かいました。
下から見る岐阜城はまさに天空の城という感じで、標高329mの高さにあります。
かつては稲葉山城と称した城は、斎藤道三の居城でもあったところで、NHKの大河にもなった司馬遼太郎の「国盗り物語」でも有名です。(自分はこの時点ではまだ読んでいなかったのですが、帰った後、すぐに読みました。斎藤道三、織田信長、明智光秀の三人がドラマチックに描かれていて久々に面白い本に出会いました。しかしこんなに司馬遼太郎って読み易かったかな?)
岐阜城に行くためにはロープウェイに乗らなくてはならない。
(軽い登山的な)ハイキングコースもあるらしく、多くの人が登ってきていたけど、当然自分はロープウェイを利用しました。
続く....。